新陰流の歴史 長田道場



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新陰流 長田道場 Last Updated 2011-07-10

新 陰 流 の 歴 史

新陰流

上泉伊勢守信綱

kamiizumi-isenokami.jpg新陰流上泉伊勢守信綱を流祖とし、足利時代末期戦国の世に創始された日本の剣術を代表する流派です。上泉伊勢守は幼少より香取神道流を修行し、長じては陰流の祖愛州移香斎より学び、新陰流を創始しました。
 新陰流を伝授するため全国各地を巡る旅をしており、多数の弟子がいました。疋田景兼(通称:豊五郎)神後宗治柳生宗厳(石舟斎)丸目長恵(蔵人佐)の四天王を筆頭に、松田清栄野中成常駒川国吉などが有名です。また、宝蔵院流槍術の流祖である胤栄(いんえい)も弟子の一人でした。
 上泉伊勢守信綱から多くの流派が誕生しています。疋田陰流タイ捨流神後流直心影流駒川改心流などが有名です。

柳生宗厳(石舟斎)

ishi.jpg柳生宗厳は 新陰流第二代の継承者です。新陰流を整備し、その子宗矩が徳川将軍家師範となるに及び、新陰流の盛名は確固たるものになりました。
 新陰流以前は、戸田一刀斎、次いで神取新十郎に剣術を学んで名を挙げていました。1563年(永禄6年)に上泉伊勢守と出会い、試合を申し込みましたが、弟子である疋田景兼(通称:豊五郎)にすら勝てませんでした。そして即座に上泉伊勢守の弟子となり、1565年(永禄8年8月)に皆伝印可となります。そして伊勢守から一国一人の印可を受けるまでにいたりました。
 1594年(文禄3年5月)に京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ家康本人を相手にして無刀取りの術技を示した事は有名です。

柳生兵庫助・柳生連也斎

yagyu-hyogo.jpg柳生石舟斎以降、孫である柳生兵庫助そしてその子連也斎へと受け継がれていきます。兵庫助はその時代にあった「直立ったる身の位」を考案し、連也斎がその工夫を完成させています。また、主君徳川光友の命による初心者のための訓練法「取り上げ使い」を開発したことも有名です。
 連也斎は幼少より剣術の才能に恵まれ、「尾張の麒麟児」の異名を持ち代々続く新陰流を完成させたと言われています。

中期

yagyu-renya.jpg新陰流中期以降では中興の祖として柳生厳春が有名です。 また中興の名人として長岡房成が挙げられます。長岡家は代々新陰流の補佐家として宗家の補佐をしてきました。その中で長岡房成は外伝試合勢法を発明しました。その経緯は、
「古今の必勝「転勢」を基本に、優れた先輩の教えによって善悪を明らかにし、およその試合の方を作り、それでもって同門の初学の人達に方法を示すことにした。しかしながらその作ったものは、ことごとくが良いものだけを選んだわけではない。あるいはその広さに身構えるものもあろう。およそ学ぶところが広くなければ、技ははかばかしい進歩をしないものである。故に経験浅い者が勝利を収める方法は、変化が無限であるため、玉石取り混ぜて選択しているのである。その善なるものは「転勢」である。試合するときは、奇策を弄して、正攻法を忘れてはならない。」
と記しています。

明治以降の新陰流

gentyo.jpg第19世の柳生厳周は兵庫助や連也斎と並び称された達人と言われています。皇宮警察で柳生新陰流を伝習するため柳生厳周は長男の厳長と宮内省済寧館へ出仕しました。
 第20世の柳生厳長は拠点を名古屋から東京に移し、自らは近衛供奉将校団師範、武徳会全国各府県中央講習会講師などを歴任しました。また現在では「柳生会」「新陰流兵法転会」「春風館」などいくつかの系統にわかれ新陰流が行われています。